| チャレンジ・ザ・パノラマ実証登山 is 地図だけを使って描いた数地点からの「パノラマ想定図」を編集部に預け、僕たちはその出来ぐあいを確かめに、中央アルプス末端のまだ見ぬ富士見台へと出かけたのだった・・・ 写真と文=田代博+藤本一美 |
| 「地図だけを使って、山岳展望図を作成し、それが正しいかどうか現地で確かめてほしい」−−−こんな、楽しくも恐ろしい課題を、「山溪」編集部M氏より申し渡されたのは、昨年暮のことだった。 理論的にはもちろん可能だが、相当面倒な作業が必要だ。しかし、最近相次いで発行されている地図関係の本にも、山頂から山岳展望図を描くく方法を記したものはない。なかなかユニークな企画ではある。何よりも地理教師としての実力を試されているようであり、失敗したら面目丸つぶれであるが、そこは自称ヤング、あえて受けて立つことになった。 さて、M氏の条件はいくつかあった。今までに行ったことのない所であること。行く前に必ず作成した図を編集部に送っておくこと(どうあっても、“カンニング”をさせないつもりらしい)。できれば山麓から目的の山を見たものも欲しい。方面は、旅費などの都合で海外はダメで(当然!?)、関東周辺とし、時期は八三年夏までに、というものであった。 |
| 候補地選びもまた楽し こうした条件を受けて、今年正月候補地を検討したのだが、決定の経過もなかなか印象深いものだったので、以下「再現フィルム」風に、その時の様子を記してみたい。 −− 貼り合わせた二〇万分の一地勢図を前にして。 T どこにしますかね.いろいろ条件がありますが・・・。 F 項上からの展望がパッとしなければ面白くないから、やはりアルプスの見える所が いいでしょうね。できれば富士山も欲しい・・・。 T とすると静岡か長野の方面・・・。翌朝早く項上に立たなければならないので、アプ ローチのよい所で、登りやすく、しかも麓からも見えそうな所となると・・・。 F 行けるのは、三月の春休みか、五月の連休のころですね。いずれにしても、あまり 高い所はやめましょう。 −−しばらく地図を眺め回す。 T 恵那山の北にある富士見台はどうですか.南アルプスがパノラマ的に見られそうで すよ。もちろん富士山も見えるんだろうなあ、富士見台なんだから。行ったことはあり ますか. F いや、まだです。中央高速道の恵那山トンネルがちょうど下を通ってますよね。 『信州有名山』(清水栄一著 桐原書店)という本に、確かここが出ていたと思いま すよ。 T そうですか、探してみましょう.エート、ありました、あっ、なかなか面白そうだ な。こう書いてあります。 「・・・昔から、ハイキング・コースとして名が知られてきた。富士見台というが、実際 にはここから富士は見えず、この名は、富士が見たいという願望からつけられたという 珍談も聞いたが果たしてどうであろうか」。この本を書いた清水さんは、結局確認して ないようですが、富士見たいとはネ。 F 地図の上ではどうなりますか.ちょうど聖岳の後ろにきますね。測定してみましょ う。 −−二〇万分の一地勢図上で測定を行う。視線に沿った見通し図を作ると完全に聖岳に隠されてしまうことがわかる。 (図1参照) ![]() T 地球の丸さからくる「沈み量」を考えるまでもなく、富士山は絶対にダメですね。 それなのに富士見台とは!? F 他の文献ではどうなっているかな。地名辞典はありますか。 T こう書いてあります。「神坂峠北方のなだらかな高原。地名は富士山を遠望できる ことに由来」(『コンサイス地名辞典・日本編』一九七五年第一刷)。 F ナルホドネ。いろいろと他にも調べてみましょう。 T いずれにせよ、富士見台が展望のよい所であることは確かなようだから、まず展望 図(「パノラマ想定図」)と実際の景観との村応を確認する。そして、富士山が本当に 見えないか、また、地元の人はどう思っているか、さらに名前の由来なども調べてみる ・・・。 F これは面白くなりそうですね。 という次第で、白羽の矢の立った富士見台は、展望以外にも興味のある課題を与えてくれることになったのである。そしで一九入三年五月、私たちは東海道新幹線、中央高速バスを乗り継いで、勇躍富士見台へ向かうのだが、以下Fの 「山行記録」から−−。 |
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| 普段の心がけ? 願ってもない上天気 メイストームが吹き荒れた翌日、Tと私は長野側の恵郷山トンネルの入口の集落である、園原の一軒宿に落ち着いた。古代には官選の国道である東山道の要衝として、伊郷谷と中山道を結んで栄えていたこの地も、モータリゼーションの普及した今とあっては、旅館の経営もままならぬのでは・・・、と余計なことまで心配してしまうのだが、できるだけ早く富士見台山項へ登り、山岳展望の実証登山をしたい我々にとっては、ありがたい宿であった。その夜は、川の落ち合う沢鳴りの水音を開きながら眠りにつく。 翌朝、障子戸を開ける物音で目が覚める。Tはニコニコしながら「いい天気ですヨ」という。やっぱり・・・。「あすは冷え込むんじゃないかい、いい天気になりますヨ」といってくれた地元の人の観天望気が当たったのだ。そわそわしながら身じたくをし、五時一〇分宿を出発。心なしか寒いので、ヤッケ姿の出で立ちである。歩き始めてすぐ右手に、旧道が段丘崖を登っている。道標には信濃賂自然歩道入口とあり、車道伝いよりも近道であることが、五万分の一地形図「中津川」で予想できたのでこの道に入る。しっかり踏まれた中馬の道だった。道端に江戸期文政年間の南無阿弥陀仏の供養碑や馬頭尊が迎えてくれるころ、小さな段丘面上に出る。水田と民家が点在するのどかな田園風景が広がっていた。 唐突だが、「富士見台に行くんですが・・・・・・富士山は見えるんですか」が、早起きの土地の古老との挨拶になる。右に長者屋敷跡の標識を見送り車道を横切ると、畦道のような旧道となる。沿道には、義経が馬を休めたという駒繋ぎノ桜や、炭焼長者吉次にちなむ姿見ノ池、さらに地形図にも記載の朝日松があり、まさに伝説の宝庫だ。 なにげなく後ろを振り向いたTが「山が見えますヨ、方向からして南アルプス・・・」。オッ! 眼前の網掛山の左手、逆光線のかなたに山々が並んでいるではないか。「雲ひとつない快晴だね。これなら頂上でも絶対見えるね」と、すばらしい山岳展望を約束してくれそうな上天気に言葉も弾む。晩秋から早春にかけての展望シーズンは終わっているだけに「まるで奇跡だね」「普段の心がけさ」と冗談も出る。 いつものクセで、南アルプスの何山なのか気になった。窓ワクの中に、南アのほんのひとにぎりの山のみが顔を出しているような山当てである。閑東周辺からのアングルに見慣れた私の目には、どうも見当がつかない.苦しまぎれに 「仙丈岳から北沢峠辺りの窪みじゃないか」と言ってみたが、Tは「聖岳、赤石岳方面のはず」と、自信ありげだった。 気がかりなまま歩いていると、飯場にぶつかり車道に出る。そばの◆木の説明板を見てから一〇〇メートルほど車道を進んだ所で、恵野山トンネルの排気口施設(煙突)が見えるようになる。 |
| 想定図そのものの展望が眼前に この辺りでまた南アルプスが後方に望見できたので、Tは、とうとうザックの中から山行前に作図した「パノラマ想定図」のコピーを取り出し、「やはり赤右、聖ですよ.左端は悪沢沢岳」と確認する。なるはど苦心の労作だけに、山並みが強く脳裏に刻み込まれ、とっさにでも山名の同定ができたわけである。もちろん、作図がいかにうまくいっていたかの実証でもあった。 見えているのは、まだ一部分だが「パノラマ実証登山」の見通しは大いに明るくなった。.それでもTは聖岳の山稜の表現をち上っと残念がっていたが、二〇万分の一地勢図をもとに標定し、沈み量を計算しながら見かけの標高を決めていくのだから、制度限界はある程度しかたのないもの・・・・・・と納得したようだった。 それかち間もなくで神坂神社の境内だ。日本式尊にまつわる腰掛石や、樹齢二〇〇〇年以上の老杉、栃の巨木が境内を一層幽玄なものにしている。 神社の裏手で車道に出る。道標(五〇メートルほど車道をバックし、由然歩道を経て富士見台へ、という案内)を無視して前進。地形図を信頼してのものだったが、明治二〇年代に開けた沢道(現在廃道)と、地形図記載の新道との分岐である追分までは、三カ所はど大きな崩壊があり、車道は大岩や砂利で埋没してしまい、歩くのも容易ではなかった。 五分ほど休憩の後、山腹の尾根道をジグザグに登っていく。すでに時計の針は六時四〇分を指している。登るに従って視界はグングン開け、眼下には園原の里の人家や阿知川の流れが白く光って見え、はるか彼方にはほぼ南アルプスの全容が日に飛び込むようになった。 今すぐにでも山頂まで飛んでいきたい心境だが、腹ごしらえもある。気のせくのを押さえて、一四七一メートル標高点近くまで一気にかせぎ、七時一〇分から三〇分まで「おにぎり」の朝食とした。 その合い間にも、写真撮影やら、再度「パノラマ忠意図」との比較にと忙しい。高度が出てきたので、近景の感じも似てきた。対岸の湯洞の断層谷が異様に映ったのもこの辺りだった。ツツドリも「ポッポ、ポッポッ・・・・・・」と鳴いている。 ここから先は、なだらかな尾根の左手山腹を巻く。遠く恵那山の項稜が見えたと思ったら、すっぼりクマザサの中に没するような道となり、一抹の不安がよぎる。「どうして、こんなに荒れ放題なのか不思議だね」などと話し合っていた矢先に、ボーンとよい尾根道に出る。「なあ〜んだ、こっちの逼を通れば楽だったのか」・・・・・・二人で顔を見合わせた(後で判明したがこれは信濃路自然歩道であり帰路はこの道を下り神坂神社前に出た)。 イワウチワの花に出合うころ、カラマツの芽吹きを通して、残雪に映えた中央アルプスを垣間見る。「この感じだと北アルプスも見えそうだね」とTは言う。前途はますます明るくなった。 |
| 大展望に小躍りながら頂上へ 朽ちかけた富士見台牧場の看板を過ぎ、平坦な尾根上に有刺鉄線の牧柵が現われる。六月から九月まで肉用牛が放牧されるそうだが、今は一頭もいない小喬木の点在する牧場内を歩く。戦後まもなくまで馬の牧放場だったと里で聞いたが、さらに普は、木曽駒の生産が行なわれたことを充分想像させてくれそうな高原だ。いつか神坂山の山腹をからむ水平道になり、並んで散策気分を味わう。やがてトウヒの原生林を抜ければ山小屋の万岳荘だが(八時三〇分着)、無人であった。 ここまでくれば頂上はわずか。岩石片のころがる谷頭を登る。ショウジョウバカマの群落がなんとも可愛い。かけるように項稜へ出る。そばの神坂小屋から最高点まではほんのひと登りだ。すでに豪華に広がっている大展望に、右を見、左を見、小踊りしながら項上へ向かう。 そしてついに標高一七三九メートル(二・五万図「伊那駒場」による。角棒の標杭には一七二三メートルとあった)の富士見台最高点(古称は山伏ガ岳、山伏塚)に着いたのは九時ちょうどだった。 チシマザサに覆われた草原が、うねうねとした起伏で続いている。その向こうには白くはばたくような加賀の白山が、斑雪の映える御岳と乗鞍が、あの槍・穂高連峰が・・・・・・、その右には中央アルプスが大きく、さらに八ガ岳までも識別できる姿で迫っていた。甲斐駒に始まる南アルプスは、まさにパノラミックに展開していた。そして間近には貫禄のある恵那山がひかえている。 恵那山は、短時間で描く「速写法」の出来ぐあいがどの程度か気がかりだったが、前山の位置がずれたものの、まずまずでひと安心だった。二〇万分の一地勢図を広けて、Tの「パノラマ想定図」をあらためて検証しながら、じつくり眺めたのはいうまでもない。 もうひとつの課題であった富士山は、やはり前山の聖岳に隠されて見えなかった。富士が見えないのに「富士見台」とは不思議な話ではある。願望としての「富士見たい(台)」説が幅をきかしているのは事実だが、富士が見えると信じている人が多いのは驚きだった。(注) 木曽谷からの冷たい風が吹き上げ始めたころ、二時間以上もいた項上を後にする。編集部からの課題を無事果たし、山岳展望も十二分に満喫・・・・・・。途中、思いがけないヤブコギはあったものの、園原の里への兄どりは快調そのものだった。 |
| (注)興味深かったのは、地元での聞き取りの結果である。岐阜県側の中津川市では、二十数名の内一名を除いて、全員富士が見えると答えたのに村し、長野県側(園原や、中央高速のバス停のある駒場)では、尋ねた五名とも、見えないと断言したことだ。最初に聞いた酒屋のおじさんは、開口一番「あれは、富士見たいですよ」と笑いながら答えてくれたのが印象深い。 ところで、「山と溪谷」一六九号(一九五三年)で前田淳は「明治初年に富士教の信者が山伏ガ岳と云われた此の山に富士の遙拝所を作ってより富士見台は・・・・・・」と発表。 この山名由来は注目してよいが、それにしても富士が見えないのになぜ遙拝所を作ったのか、素朴な疑問がわくところである。 踏査日 一九八三年五月八〜九日 |
このあと、「パノラマ想定図」を描くには・・・・・・ が1ページあるが省略。 『山岳展望の楽しみ方』224〜227ページを参照して下さい。 以下、関連写真・図の一部です。雑誌掲載分とは若干異なります。 |
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| 想定図Aと実際の写真(『山岳展望の楽しみ方』に掲載したものを使用) |
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| 想定図B (藤本一美氏作画) |
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| 山頂からの写真(雑誌掲載分とは異なる。掲載分はそもそもモノクロである) |
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| 二人が広げているノートには「パノラマ実証登山大成功1983.5.9」と書いてある |
| ◆おまけ◆ 本文に出てくる乗鞍岳、穂高岳方面 |
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